ゲームジャーナリスト、なんて言っても、基本的に私はゲーム大好きオタク。基本的にはゲームを遊びまくり、特に印象に残ったものを紹介するのが主な仕事で、具体的には2014年から累計300本近くゲームのレビューを書き、ラジオやテレビに出て著名人にこのゲーム面白いよと紹介して回ってきた。

そんな私が、あえてeスポーツメディアの「GAMEクロス」で執筆する上で、何が書けるのか。色々思考を巡らせた末、ここであえて「ゲームそれ自体を語らない」ことが一番面白いのではないかと考えた。

「GAMEクロス」はサイトのコンセプトを聞くと、「ゲーム好きが集まる交差点」。だからこそ、私もこの「クロス」に私も参加したいと思った。

あえてゲーム好きにゲームを紹介するのではなく、ゲーマーが日常の中でギリギリ視野の外に置いてしまう、けれど一度触れればその魅力に虜になるような、「ビデオゲームにおける辺境的コンテンツ」を紹介したい、と。

前置きが長くなった。そんなわけで今回私が紹介したいのは、YouTubeで公開されているとある動画シリーズ。その名も「Live/Play」。

人気MOBAゲーム「League of Legends(LoL)」の開発元、Riot Gamesが制作した動画シリーズだ。「Be There(そこにいるよ)」「Something Bigger(より大きく)」「Who We Are(僕たちは何者なのか)」「Together(ともに)」の、全部で4つのエピソードをまとめた章から構成され、1つの章ごとに3人、ないしグループのエピソードが映し出される。

それでも生きて、遊ぶ――あるYouTuberの再生

例えば、エピソード1の最初に紹介される「逃げ場なんてない」は、Foxdropというイギリスの配信者が主人公だ。YouTubeやTwitchでは饒舌な解説と巧みなプレースキルから「先生」のように親しまれる彼は、育ての親である祖母との死別、そして自らの偏執との闘いを心の内側に抱えていた。不安、恐怖、孤独、そうした精神的な葛藤に対して、Foxdropとしてコミュニティーに受け入れられている自らのアイデンティティーを見出し、ファンとの交流を通じて葛藤を克服、そこから生を快復していく、そんなストーリーとなっている。

Live/Play エピソード1 “Be There”「逃げ場なんてない」より

このように、「Live/Play」を視るにあたって「LoL」に対する知識は全く必要ない。このドキュメンタリーの主役は人間だ。人間が遊ぶゲームではなく、ゲームを遊ぶ人間にスポットライトをあてる。祖母を亡くし、兄は学業のため家を離れた。精神的支柱を一度失ったFoxdropが、配信や動画投稿を通じてネット越しに新たな絆を紡ぎ、そこに自分の存在意義を見出していく。どのようにゲームを遊んだかではなく、ゲームを遊んだ末にどうなったかを描いているのだ。

タイトルのLiveもPlayも動詞だ、即ち、生きることも、遊ぶことも、人間が自らの意志で行うもの。ゲームは、「LoL」はあくまでその過程に過ぎない。このエピソードでFoxdropは一度ふさぎ込み、1日に22時間も寝込んでしまうほど主体的に何かを行うこと、つまり生きること自体に関心を失ってしまう。しかし、そんな消耗した精神の彼でもゲームを遊ぶことはできた。そしてゲームを遊ぶことで、外界との繋がりを保ち、再び生きることの希望を取り戻していく。

これをゲームの開発元であるRiot Gamesが制作したことに、私は少し動揺した。そこまで見据えているからこそ、世界で1億人が夢中になるほど面白いゲームを作れるのか、と。

遊んで、別れて、生きて、また会う――ディスプレイの向こう側にいた親友

Foxdropのエピソードのように、「Live/Play」はゲームではなくゲームを遊ぶ人間のみを描いていく。Foxdropは文字通り生を遊ぶことで取り戻すエピソードだが、同じくエピソード1に収録されている「そっちに向かってるよ」は極めて対比的で、故に印象深い。

ブラジルのある青年の独白からストーリーが始まる。

「偶然なんてない、それが僕の信条だ」

「LoL」というゲームを始め、その中で「ヴィクトル」という青年と出会い、チームを組んで共に勝利を目指した。4年間、彼らは実際に会うことはなかったが、共に「LoL」をプレーする中で何気ない日常会話まで交わすようになった。ヴィクトルは彼を「本物の兄弟」のように接することができたと語る。そして遂に、彼は深夜バスに乗ってヴィクトルの元へ向かうことを決断する。

Live/Play エピソード1 “Be There”「そっちに向かってるよ」より

何故なら、ヴィクトルが亡くなったからだ。死因は交通事故、20歳の若さだった。

「不思議だ。前みたいに一緒に遊ぶ彼がいないのが。ゲームの中でも外でも頼りにしていた彼が、今はもういないんだ」

Foxdropのエピソードは、遊ぶこと(Play)を通じて生(Live)を取り戻す物語だった。一方でこのエピソードは、ヴィクトルという人間の死、Deathの物語でもある。2人の青年がゲームを通じて共に生きる。距離が離れていても、2人の心は本物の兄弟のように繋がっていた。けれども、Liveがある限りいつか必ずDeathも訪れる。ただそれがあまりにも早かった。エピソード1にして、既にこの当たり前の事実を、だけど普段眼をそらしてしまう苦い事実に向き合わせる、Riot Gamesの覚悟には思わず冷や汗をかいてしまう。

それでもヴィクトルの墓前に、青年は「この旅行がもたらしてくれた幸せを僕は一生忘れない」と言う。実際に会えなかったことを、もっと早く会っていればと後悔してはいない。実際に会うことが、生きているうちに会う必要などなかった。遠く離れた場所から、チャットアプリのメッセージと、ヘッドセット越しの音声通話でも、彼らは確かに生きること、そして遊ぶことを共有していた。そして青年は、これからもヴィクトルのいない世界でずっと遊び、そして生きていくのだろう。

たくましい背中を見せる青年から、死を超えた先の「Live」を見通して物語は終わる。「そっちに向かっているよ」というタイトルは、決して親友の死を追うものでも、また拒絶するものでもない。当たり前に生きて、当たり前に死んでいく。その当たり前を共有する中で、ほんの少し先走った親友に対する、ちょっとした茶目っ気なのではないか。

遊ぶことで価値を証明したい――イスラエルの挑戦者たち

「勝利には何が必要かと自分に問いかけます。でも答えはありません。何一つ」

最後に紹介したいのが、エピソード2に収録される「自分たちの価値」。

イド・ブロシュというリーダーを筆頭に、イスラエルの若者たちで構成された代表チームが韓国で開催される国際大会へ出場する。5人のプレーヤー、そしてマネージャーやコーチたちは、ユーラシア大陸を横断して東の韓国へ降り立った。初戦のモンゴル戦、機材のトラブルがあったとはいえいきなり敗北し、彼らは焦った末に、次のセルビア戦も落としてしまう。それでも、三戦目の台湾戦は何とか勝利、ポイント判定で準々決勝へ進出し、喜びのあまり抱擁する選手たち。

そこで選手たちがカメラに向かって打ち明ける。メンバーの多くが来年から兵役に服さなければならず、従って今のメンバーではもう来年から挑戦できなくなることを。だからこそ今年で勝ちきらなければいけない、選手たちは口々にその強い覚悟を話す。だが、準々決勝では相手のスイスに一方的に打ち負かされ、あっけなく韓国への遠征は終わってしまう。

「でも素晴らしい体験でした。韓国への旅は忘れられないものになるでしょう」

選手の1人はこう語った。

このパート「自分たちの価値」は「Live/Play」の中で、かなり「Play」に偏った内容だ。他のエピソードがあくまでゲームを遊ぶ日常にフォーカスをあてているのに対して、ここでは徹頭徹尾、「LoL」という「遊び」のことを考え、学び、競い、そして打ち負かされるという物語になっている。

Live/Play エピソード2 “Something Bigger”「自分たちの価値」より

そもそも、この「Live/Play」が制作されるようになった背景には、今ある「eスポーツブーム」を築いてきた自分たちへのアンチテーゼがあったのではないかと私は考えている。まさしく「LoL」もそうなのだけど今、世界中の対戦ゲームにおける北極星として、配信サイトや会場を賑わせるプロゲーマーたちは、文字通り遊ぶ(Play)こと自体が生きる(Live)となった稀有な人種だ。対して、このドキュメンタリーに登場する人々の多くが、生きる上での息抜き、休息としてゲームを遊ぶ、一般的な生活を送る人々。そうした一般人を描くことで、このeスポーツブームの中で忘れられかけていた、プロゲーマーとはまた異なるゲームとの付き合い方、生きる上で遊ぶ日常を、改めて取り戻したかったのではないか。

それでも「自分たちの価値」は、あくまで遊ぶことに全てを捧げたいと願う若者たちを描く。そしてその上で、彼らの結末まで描く。「遊ぶ」ことではなく、「戦う」道を余儀なくされる若者たちを描く。その背中は少し悲しいけど、でも多分、「遊ぶ」人間にとって少なからず共感できる背中ではないだろうか。特に「LoL」のような常に他者との競争が前提におかれた作品を進んで遊ぶのは、やっぱり勝ちたいからだ。それも、たくさん勝ちたい。誰よりも強くなりたい。多くの人間がそれでも「生きる」ことを優先する中で、「遊ぶ」をやめられない人間もいる。プロゲーマーとして生きる星々と、一般人として遊ぶ人々の間に、彼らのような人間もまた確かに存在する。

イド・ブロシュたちの祖国、イスラエルは現在も戦争状態にある。1993年、一度イスラエルはガザ地区のパレスチナ解放機構と相互に自治権を認めるオスロ合意に同意したが、パレスチナにおいてハマース内閣が樹立して以降、再び両側は関係が悪化。近年も複数回、ガザ地区からテルアビブに対してロケット弾が発射され、イスラエル軍はガザ地区を空爆するなど、レバントにおける暴力の連鎖は終わらない。恐らく、韓国から帰国した彼らイスラエル代表選手たちが兵士となった時、この終わりなき紛争に巻き込まれることは避けられないだろう。

きっと彼らは、5.56mm NATO弾が装填されたタボールではなく、LEDで光るマウスとキーボードで、祖国に栄誉を持ち帰りたかったと願っているだろうと私は思う。彼らの抱く「自分たちの価値」は、決して誰かを傷つけることではなく、誰かと遊ぶことで見いだせるもののはずだ。

これまで紹介した通り、「Live/Play」は遊ぶことで生きる理由を見つける物語だった。だが「自分たちの価値」は、その両立がいかに困難であるかも説くエピソードでもある。

生きること、遊ぶことが等しい時代へ

私が初めて「Live/Play」を視聴したのは、公開されて間もない2016年の時。この時のわたしは特に「LoL」にのめりこんでいて、LiveとPlayの比率がほぼ3:7ぐらいになっていた。そんな不健全な生活を送っていたからだろうか、単なるゲームのプロモーションだとたかをくくって観たこのドキュメンタリーは、ズドンと、みぞおちを殴られたように強く印象に残った。

ゲームを遊ぶこと、そして現在を生きること、これらは自分が自覚していない程に強く結びついていて、それはゲームを遊び続ける限りずっと続くのだと。ゲームのために喜んで、悲しんで、そうした全てを自分の人生の糧にしていく、考えてみればごく当たり前のことを、よくここまで丁寧に論じたものだと思う。

2020年、世界のゲーム人口は30億人を超え、コロナ禍における自粛もある中で更に注目を浴びるビデオゲーム。漠然とゲームが悪いと批判するわけでも、ゲームが良いと奨励するわけでもなく、そこに生を多種多様な人間模様から見出そうと試みた「Live/Play」を、今こそ視聴するべきだ。